
Ⅰ. 終末論的視点から見る「時と時期」の意味
テサロニケ第一の手紙5章1節から2節にかけて記されている「兄弟たちよ。その時と時期については、あなたがたには書き送る必要がありません。主の日は夜中の盗人のように来ることは、あなたがた自身がよく知っているからです」(Ⅰテサロニケ5:1-2)は、初代教会の信仰の一つの柱をよく示しています。初代教会は、総じて昇天されたイエス・キリストがすぐに再臨されるという思い、すなわち切迫した終末論的期待を抱いて生きていました。イエス様が復活され、天に昇られてすぐ、弟子たちは「主はいつ来られるのか?」という問いに大きな関心を持っていました。その中でもテサロニケ教会は、この終末論的な問いを非常に熱心に黙想し、議論していた共同体でした。特にパウロが約3週間(使徒17章)テサロニケに滞在し、会堂で教えたとき、テサロニケの信徒たちは救い論や終末論に関して深い問答を絶えず交わしていました。だからこそパウロは、「兄弟たちよ。その時と時期については、あなたがたには書き送る必要がありません」(Ⅰテサロニケ5:1)と語り、すでに彼らが「時」(クロノス)と「時期」(カイロス)に対してかなり深い理解をもっていたことを確認できるのです。
では、「時」(クロノス)と「時期」(カイロス)の違いとは何でしょうか。ギリシャ語のクロノス(Chronos)は量的な時間を意味します。時間の分量、流れ、順序などを指し、年代記(Chronology)やクロノメーター(Chronometer)という語からも推測できるように、「正確に測定し区切られる時間」という概念です。一方、カイロス(Kairos)は質的な変化を含んだ「特別な瞬間」、すなわち時点を意味します。たとえば、ある人が結婚式の日を迎えるなら、その一日は単に量的に流れていく日々の一つではなく、以前と以後の人生が質的に変化する「特別な日」となります。これがカイロスの概念です。テサロニケの信徒たちは歴史が流れるクロノスの中に、主が再臨される特別なカイロスの日、すなわち「主の日」が切迫しているという事実を深く認識していたのです。
聖書が語る「主の日」は、旧約においては「ヤハウェの日」または「主の御名の日」と呼ばれ、新約では「イエス・キリストの日」、あるいは「主の再臨の日」へと繋がります。イエス・キリストはすでにこの地上で救いのわざを完成され、復活・昇天によって救いの歴史の道を開かれました。しかし同時に、「このイエスは、あなたがたが天に上げられるのを見たとおりにまたおいでになる」(使徒1:11)と言われたゆえ、教会は「その日」に向かって、すなわち終末の完成の日を望みながら生きるのです。聖書はこのように、循環論的な歴史観を提示しません。東洋思想がしばしば語るように、歴史が春夏秋冬のように繰り返される無意味な循環ではなく、むしろ聖書は歴史に唯一の始まりがあり(創造)、終わりがあり(終末)、そしてその終わりには最後の審判と新しい天と新しい地が到来するという直線的歴史観を宣言しています。
テサロニケ教会が終末論的信仰を持っていたということは、この教会が常に「主はすぐに来られる」という緊張感と聖なる希望のうちに生きていたことを意味します。彼らは迫害や患難が多く、また偽りの教えが横行する状況の中でも、「間もなく来られるイエス・キリストが私たちのすべての悔しさや苦しみを清算してくださる」という信仰を堅く握りました。マタイによる福音書10章23節でイエス様が「この町で迫害されたら、次の町へ逃げなさい。…イスラエルの町々を全部回り終わらないうちに、人の子が来る」と言われたように、彼らにとって主の再臨はいつどのように実現してもおかしくないほど切迫した現実でした。さらに使徒1章で天使が語った「なぜ天を見上げているのか。このイエスはそのまま来られるのだ」という宣言も、初代教会が日々を生きる原動力となったことは明らかです。
こうした文脈の中で、パウロはテサロニケ第一・第二の手紙を通して、終末論的な問いに対する具体的な答えを与えます。テサロニケ第一4章では、死んだ者たちはどうなるのか(死者の復活と携挙の問題)という問いに答え、5章では「主の日は夜中の盗人のように来ることは、あなたがた自身がよく知っている」(Ⅰテサロニケ5:2)として、時期を限定しようと執着しすぎないよう勧めます。パウロは「時と時期」を具体的に知らせることはしませんが、だからといって「何の徴候もなくただ漠然と待て」と言っているのではありません。むしろ「盗人のように来る」というイエス様の教え(マタイ24章、ルカ17章、マルコ13章などの小黙示録)を再度強調し、それをすでにテサロニケの信徒がよく知っていると確認します。また「いちじくの木のたとえ」を通して時代を見分ける知恵の必要性を説きつつも、御子さえその日を知らないとされたゆえ、日付や年を特定しようとする試みが無益であることを教えています。
このように終末論は、キリスト教教理の非常に重要な三本柱の一つです。キリスト論と救い論が具体的に私たちの信仰と生活を変えていく過程に必須であるならば、終末論は私たちの現在と未来を結びつける「時間観」と「歴史意識」の核心です。ですから初代教会から、教会が歴史の終わりをどう理解すべきかについて、多くの議論が重ねられてきました。前千年王国説、後千年王国説、無千年王国説といった学説も、そうした切望の産物です。ディスペンセーション主義の前千年王国説では携挙や大患難、千年王国などの青写真を細かく区分し、後千年王国説では教会が福音を伝えることで地上におけるキリストの支配が徐々に拡大し、やがてその再臨を迎えると見なします。無千年王国説は千年王国を象徴的・比喩的に理解し、今の教会時代こそキリストが支配されている「霊的な王国」であるという観点で終末を捉えます。こうした学説間で神学的論争は存在しても、「終末が確かに存在する」という一点は共通しています。教会はその日を待ち、備えつつ、神の民として現在を生きなければならないという大前提を否定しません。
テサロニケ教会も同様の問題意識を抱え、パウロに積極的に尋ねました。テモテがテサロニケ教会を訪れたとき、信徒たちは再臨の時期に関する問いを繰り返し投げかけ、その答えをパウロが手紙として送ったのがテサロニケ第一・第二の手紙です。教会史は、信仰上の疑問があるなら遠慮せず質問することがどれほど重要かを証言しています。コリント教会も同じでした。エペソにいたパウロに対して、信仰上の大小様々な問題(不品行の問題、偶像へのいけにえの問題、賜物の問題、復活の問題など)を克明に尋ね、それに対する答えをパウロが送ったのがコリント第一の手紙です。これは今日の教会にとって大きな益となっています。もしコリントの信徒たちがパウロに疑問を投げなかったとしたら、私たちはコリント第一の手紙のように豊かな文書を得られなかったかもしれません。それほど、教会の中で「質問と答え」の交流は信仰の体系を築いていく核心的なプロセスなのです。
テサロニケの信徒たちが終末論について無秩序に信じたり極端主義的な態度を取っていなかったことは、パウロが「兄弟たちよ。その時と時期については、あなたがたには書き送る必要がありません」(Ⅰテサロニケ5:1)と言えるほど、すでに十分な学習と議論がなされていた事実から伺えます。もちろん「主の日が間近に来るのだから、日常の労働をやめよう」という極端な信仰を持った者も皆無ではなかったようですが、全体としてテサロニケ教会は自発的に熱心に働き(Ⅱテサロニケ3章)、同時に主の御来臨を慕い求め、目を覚まして祈るというバランスのとれた姿を持っていました。パウロはこの教会のバランス感覚を高く評価し、さらに彼らに対して目を覚まして身を慎むようにと繰り返し勧めます。
ここで一歩踏み込み、テサロニケ第一5章2-3節にある「主の日が夜中の盗人のように来ることを、あなたがた自身がよく知っています…その時には、妊婦に産みの苦しみが臨むように、滅びが突如として彼らにやって来るのです。決してそれをのがれることはできません」という御言葉を見てみましょう。「盗人のようだ」という比喩は、旧約・新約を通して災害や神の裁き、あるいは主の再臨が予告なしにやって来ることを意味するときに使われます。これはある面では備えのない者たちに降りかかる突然で悲惨な現実を描写しています。しかし他の面では、「ただ父だけがその日を知っている」(マタイ24:36)というイエス様の教えにも合致します。つまり、人はどんな計算法でも再臨の時期を特定できないということです。
この点で張ダビデ牧師は、さまざまな説教や著書を通じて、「終末論の核心は日付を算出することではなく、いかに現在を神の御心にかなうよう生きるかを悟ることだ」と強調してきました。私たちは、その日とその時を完全に神の御手にゆだねつつ、主の再臨がもたらす完全な救いと裁きを待ち望みながらも、同時に今日を「善い忠実なしもべ」として生きるべきです。実際、「天国の福音があらゆる民族に宣べ伝えられるとき、終わりが来る」(マタイ24:14)という御言葉のように、教会が終末を論じるとき、必ず覚えておかねばならない事実は「すべての民族、すべての国民に福音を伝える宣教の使命」です。終末は教会が恐れに屈服して世間から逃避するために宣言されたのではありません。むしろ終末の約束は、「目を覚まして備えなさい。信仰と愛をもって生き、全地に福音を伝えなさい」というイエス様の命令を後押しします。
こうした観点から見ると、テサロニケ教会が称賛されたもう一つの理由は、彼らが単に「再臨の日付当て」に没頭するのではなく、主を慕う熱い思いと同時に健全な信仰共同体性を育んでいたからです。「兄弟たちよ、あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません」(Ⅰテサロニケ5:4)と言われたとき、パウロは「テサロニケの信徒たちはすでに光の子、昼の子であるゆえ、主の再臨は彼らにとって盗人のように突然ではない」と語ります。夜に眠る者たちとは違い、彼らは目を覚ましているため、主がいつ来られても喜びをもって迎える準備ができているという意味です。張ダビデ牧師もまた、教会が終末の時を語るときに忘れてはならない最も大切な態度は「いつも目を覚まし身を慎むこと」だと言い、その「身を慎む」と「目を覚ます」ということは単なる恐怖ではなく、「福音に基づいた積極的な備え」であると説明します。
では終末論が個人の生活にどのように適用されるべきでしょうか。私たちは誰しもいつか肉体の死を迎えます。これは個人的な終末です。同時に歴史全体が終わる時点もやって来ます。これは宇宙的な終末であり、主の再臨の時です。パウロは私たちの「個人的終末」はもちろん、「宇宙的終末」に対しても教会が揺らぐことなく備えているように求めます。それではその備えはどのように実践されるのでしょうか。それは御言葉に対するたゆまない黙想と、信仰と愛の実践によって成し遂げられます。「私たちは昼に属する者ですから、身を慎み、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みのかぶとをかぶりましょう」(Ⅰテサロニケ5:8)という節が、それをよく示しています。霊的な戦いの中で、キリストの兵士たちは胸部を守る胸当て(ホシンケイ)と頭を守るかぶとで武装します。その胸当ては「信仰と愛」、かぶとは「救いの望み」です。つまり、主の再臨を頭で知るだけでなく、信仰と愛という胸当てによって自分の魂と生活を守り、「救いの望み」というかぶとによって、どんな混沌とした思想や誘惑にも揺るがされないようにするということです。
一方、パウロはここで「あなたがたはみな光の子、昼の子です」(Ⅰテサロニケ5:5)とも言います。光とはすなわち真理を意味します。つまり彼らは神の御言葉のうちにとどまり、その御言葉を通して歴史を眺め、終末論的な希望を抱いて現在を生きる者たちなのです。彼らは「主の日」が盗人のように来たとしても、決して闇に包み込まれません。なぜなら、すでにその光の中で目を覚ましており、いつ主が来られても「ともし火を整えて待っている十人の乙女」(マタイ25章)の姿勢を備えているからです。こうしてテサロニケ教会は新約時代において模範的な「終末論共同体」として称賛を受けるのです。
テサロニケ教会が「時と時期については、もう書き送る必要がない」と評価されたのは、彼らが「歴史の終わり」に対する明確な確信と理解をすでに持っていたからにほかなりません。漠然と終末を恐れたり、あるいは誤った計算で人々を惑わすのではなく、健全な終末論と歴史意識、そして何よりも主の来臨を待ち望む希望と愛の実践を同時に追求していたのです。張ダビデ牧師もこの点を繰り返し強調しています。終末論は恐怖心をあおったり、日付を占って人々を惑わす手段ではなく、「私たちは毎日をどう生きるべきか」「教会はこの地上でどんな役割を果たすべきか」を悟らせてくれる、大切な信仰の根本なのです。
Ⅱ. 目を覚まして身を慎む生活の必要性と教会の使命
さて、テサロニケ第一5章4節以下の「兄弟たちよ。あなたがたは暗闇の中にいないのですから…私たちは昼に属する者ですから、身を慎み、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みのかぶとをかぶりましょう」(Ⅰテサロニケ5:4-8)という御言葉を土台に、初代教会の終末論的信仰が実際にはどのような実践的生活と教会の使命に結びついているのかを見ていきましょう。パウロははっきりと言います。「兄弟たちよ。あなたがたは暗闇の中にいないのですから、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません」(5:4)。これは、準備し目を覚ましている人にとって、主の日は突然の恐怖ではないという意味です。ある人は「盗人のように来る」という表現を聞いて「誰もその時を知らない」という点にだけ注目するかもしれません。しかしパウロはまったく違う次元で語っています。「あなたがたが光の子であるならば、盗人のようには来られない。なぜなら、すでに光の中で備えているからだ」と。
これはイエス様がたとえで語られた「十人の乙女」の話(マタイ25:1-13)とも通じます。五人の乙女は油を用意し、残りの五人は準備をしませんでした。いざ花婿が到着したとき、準備していた乙女たちは花婿を迎えますが、準備していなかった者たちは扉が閉まった後に来ました。彼女たちにとって主の再臨は「盗人のように」感じられ、門の外で悲しみを味わったのです。しかし備えていた者たちには少しも盗人のように感じられませんでした。むしろ待ち望んでいた「約束の実現」でした。テサロニケ教会はこのような備えのある五人の乙女のような存在でした。いつ来られるかわからない時をめぐって不安や強迫観念に陥るのではなく、「主は必ず来られる」という信仰に励まされ、信仰・愛・希望の武装(胸当てとかぶと)を整えていました。
では「目を覚まし身を慎む」とは具体的にどういう意味でしょうか。第一に、「目を覚ます」とは霊的に油断しないことです。油断するとは、「主を忘れ、日常の誘惑や罪に陥る状態」を指します。終末論的感覚を失うと、この世の価値観や物質主義に簡単に埋没してしまいます。しかし再臨を確信する者は、日常の労働や奉仕の中でも「私は主のしもべだ。いつか主の御前で決算する日が来る」という意識を失いません。イエス様がタラントのたとえ(マタイ25:14-30)で教えてくださったように、主人は必ず帰ってきてしもべたちと決算します。これは終末論のもう一つの核心的教えです。終末論は「後になれば新天新地で快適に過ごせればいい」という漠然とした期待だけを語るのではありません。むしろ「今、この瞬間を責任をもって生きなさい」という現在的な挑戦を突きつけます。テサロニケ教会の信徒たちも、再臨の日を慕い求めながら、自分たちの生業をきちんと果たし、この世の中での責任を全うしようとしました。
第二に、「身を慎む」とは自分自身を省みて抑制することです。酔う者は夜酔い(5:7)、夜に眠る者は霊的鈍感に陥ります。しかし光の子である私たちは「昼に属する者」として、この世の風潮に無防備に流されないという決断が必要です。パウロはその面で「信仰と愛の胸当て」を強調します。魂の中心部、すなわち胸を守る装備が信仰と愛だというのです。信仰とは「私たちを救うと定められた神」を信頼する姿勢であり、愛は「その信仰が具体的行動としてあらわされる実践」です。また「救いの望みのかぶと」も絶対的に重要です。もし信仰が私たちの生き方を支える根であるならば、希望は私たちが見つめる未来です。希望がない人は頭(思考)が揺さぶられます。世の困難に直面すると、頭が混乱と絶望に陥るのです。しかし「救いの望み」、すなわち主が再び来られてすべてを善に締めくくり、完成してくださるという確信があれば、いかなる状況でも心が乱されることはありません。
このように目を覚まし身を慎む人は、終末を「盗人のようにやってくる裁きの夜」としてのみ恐れません。むしろその日こそ「主に直接お会いする救いと栄光の日」であり、「私たちが切に待ち望んだ本国(天の故郷)に至る日」だということを知っているのです。だからこそパウロは「神は私たちを怒りに定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得させるように定められたのです。キリストは私たちのために死なれました。それは、目を覚ましていても眠っていても、私たちがキリストと共に生きるためです」(Ⅰテサロニケ5:9-10)と宣言します。これは信者にとって終末が単に「罪の宣告」だけではなく、「完全な救いの完成」を意味することを示す核心的真理です。ゆえに健全な終末論を持つ人は、不必要な恐怖に支配されることがありません。一方で自分勝手に生きてもよいという無責任さや放縦にも陥りません。「主が再び来られる」という事実が宣言された瞬間から、私たちは今日という時の中でこそ主の御心に従い、やがて訪れる完全な救いを待ち望んで喜びのうちに備える道を選ぶようになるのです。
こうした観点において、教会は世と異なり、常に「終末論的使命」を意識すべきです。もし教会が終末論を忘れてしまうならば、現世の価値や利益追求に埋没する危険が大きくなります。教会が「やがて神の国が来て、私たちはその御国に参与する」というビジョンを失うならば、むしろ世よりも世俗的な組織へと転落しかねません。そこで張ダビデ牧師は、教会が主の来臨を切に待ち望む霊的共同体として、終末論的希望を握りしめ、地の果てにまで福音を伝える宣教の情熱を回復する必要があると教えています。教会は単に教会員数や勢力拡大にとどまるのではなく、「天国の福音がすべての民族にあかしされるために」(マタイ24:14)その使命を果たす共同体となるべきなのです。教会がこの地上で礼拝をし、御言葉を教え合い、互いに勧め合い徳を高めるのは、すべて「再び来られる主」を見つめるがゆえです。
テサロニケ第一5章11節でパウロは「ですから、あなたがたは互いに励まし合い、互いの徳を高め合いなさい。あなたがたはすでにそうしているのですが」と言います。他の手紙では教会内の分裂や争いを叱責する場面もありますが、テサロニケ教会はパウロが称賛するほど互いに励まし合い、徳を高め合う姿に優れていました。これは終末論的信仰と切り離せない態度です。なぜなら終末論は究極的に「私たちはみな神の子であり、主が来られるとき共に栄光にあずかる同労者たちである」という意識を育むからです。その日が近づけば近づくほど、教会はより聖く、より切に、より熱く共に信仰生活を営むべきです。兄弟の欠点を互いに覆い、励まし合い、互いに建て上げられるよう努力すべきなのです。
終末論は、私たちの日常生活に直接的な動機を与えます。不確実な世の中でも、「私は神の子であり、光の子である。主の再臨に備えて信仰生活を全うしなければならない」という自覚を抱かせてくれます。教会も同じです。「教会」はまさに終末論的共同体です。建物ではなく、財政を集める機関でもなく、「主が再び来られる」ことを待ち望み(マラナタ)、世に福音を伝え、愛を実践して救いの完成を迎える「光の子たち」の集まりなのです。張ダビデ牧師は、この点で教会が世に善なる影響を与え、福音を拡大していく行いこそが、終末論的信仰の直接的実践だと強調しています。「今ここ」で天国文化を実現し、世の陰の部分や疎外された人々を顧み、同時に主の来臨を切に望む――この複合的な姿勢こそが「目を覚まし身を慎む生き方」なのです。
総合してみると、パウロがテサロニケ教会に与えた称賛と勧めは、現代の私たちの教会にもそのまま適用できます。パウロは「兄弟たちよ、あなたがたはこの問題(終末論と時と時期の理解)においてすでに深く研究し議論してきたので、私からもう書き送ることはないほどだ」と言います。これは彼らがすでに神の歴史と終末についてかなりのレベルの洞察を持っていたことを認める表現です。さらに「あなたがたは光の子なのだから、その日が盗人のように来ることはあり得ない」という励ましは、私たちが主の来臨を待ち望み備えつつ、互いに励まし合い、共に立て上げられる教会として召されたというアイデンティティを再確認させるものです。この信仰が十分に根づくとき、教会は世の患難と迫害のただ中にあっても揺るがず、福音に忠実でいられるのです。
もっとも今日の教会においても、終末論は誤解を生むことが少なくありません。特定の日付を予告したり、終末への恐怖心をあおって自らの利益を追求する異端的な動きも絶えません。ゆえに私たちはテサロニケ教会が示した「バランスのとれた終末論」を学ぶべきです。そのバランスは大きく二つあります。一つは「その日とその時は誰も知ることができないのだから、無謀な算出や私的な啓示を振りかざしてはならない」ということ、もう一つは「しかし時代の徴候を見分け、御言葉と宣教、そして愛の実践を通して常に目を覚ましていなさい」ということです。この二つの教えが調和するとき、教会は現世と来世を見渡しながら健全に成長します。クリスチャンの生き方は世的現実を無視せず、同時に神の国の完成を見つめて生きる二重構造を備えるようになるのです。
張ダビデ牧師がこうしたテーマを説教するとき、最も強調する一つのポイントもまさにこれです。「『盗人のように来るその日』という表現だけを聞いて恐怖に縮こまったり、漠然とその日を計算しようとする方に極端に偏ってはならない。パウロの意図は明白だ。『あなたがたはその日がいつ来ようとも、すでに光の中にいるから恐れる必要はない。ただ目を覚まして身を慎みなさい。信仰と愛、そして救いの希望で身を固めなさい』ということだ」。この確信がしっかりと根づけば、教会は日常生活の中でより大きな喜びと命を謳歌するようになります。終末論が教会を重苦しい不安へ追いやるのではなく、むしろ活気と希望へと導くのです。
さらにテサロニケ第一5章9-10節でパウロが強調しているように、「神が私たちをお立てになったのは、御怒りに会わせるためではなく、ただイエス・キリストによって救いを得させるためなのです」。これが新約の福音です。終末は神の怒りと裁きだけを意味しません。もちろん救いと裁きはコインの裏表のように同時に訪れますが、イエス・キリストを信じる者にとっては、その裁きさえも救いの一過程であり、主と顔と顔を合わせて永遠のいのちにあずかる出発点となるのです。ですから「目を覚ましていても眠っていても、私たちがキリストと共に生きるため」(5:10)という一節が彼らの運命を確定づけるのです。パウロは、テサロニケの信徒が最も知りたがっていた終末論的問題に対し、「主の日」は恐怖の対象ではなく、むしろ聖徒が救いを完全に受け取る時だ、という明快な結論を提示しています。だからこそ教会は互いに励まし合い、徳を高め合ってその日に備えよと勧めるのです。
現代の教会においても依然として、あるいは一層、この終末論的信仰と態度が必要とされています。世はますます混乱と対立へ向かい、人々は未来を不確かだと感じて不安を訴えます。このような時代に教会が与えられるべき答えは、「もうすぐ世が滅びるから恐れ、隠れていなさい」ではありません。教会が伝えるべき知らせは、「主が再び来られ、その日に私たちの救いは完成する。だから目を覚まし身を慎んで、愛をもって世に仕えよう」ということです。それこそが「福音」です。そしてそれこそが「ともし火を用意している十人の乙女」の姿であり、「タラントを商売して増やす忠実なしもべ」の姿勢です。そうするとき、主が来られる日がいつであっても、私たちは主を喜び迎えることができます。
テサロニケ第一5章に流れる終末論的メッセージは、教会がこの地上をどう生きるべきかを一貫して教えています。主の日は夜中の盗人のように来ますが、「光の子」である私たちには決して盗人のように襲いかかることはできません。なぜなら私たちはすでにその光の中で目を覚まし身を慎んでいるからです。張ダビデ牧師はこれを何度も思い起こさせながら、「現代の教会が終末論を単なる末世の恐怖や刺激的な予言として消費してはならない。むしろ終末論は教会をいっそう健全に、さらに宣教的に、そしてより愛に満ちた共同体へと導く神の道具だ」と説きます。かつてテサロニケ教会がそうであったように、あらゆる時代の教会も「主イエスよ、来てください(マラナタ)」という叫びの中で互いに徳を高め合い、励まし合いながら、主のラッパの響きがとどろく日を喜びをもって迎える備えをなすべきなのです。
このように二つの小見出しに分けて見たテサロニケ第一5章の終末論的教訓は、私たちに次のことを強調します。第一に、「時と時期については正確に知ることはできないが、主は必ず来られる」ということ。第二に、「盗人のように来るその日も、光の子にとっては決して盗人のようには感じられない。なぜなら常に目を覚まして身を慎んで備えているから」です。さらに主は「この天国の福音がすべての国民に宣べ伝えられた後、終わりが来る」(マタイ24:14)と仰せられたので、教会は終末を語りつつも同時に世のただ中へ出て行って福音を宣べ伝える使命を全うしなければなりません。
結局、終末論は教会を現実逃避へではなく、現実を変革する方向へ導く「確固たる信仰の原動力」です。迫害や困難の中でもテサロニケの信徒たちは「主の日」を待ち望み、それゆえパウロは彼らにあふれるような愛情を込めて称賛し、同時に勧めを綴りました。今日、私たちの教会もこの称賛を受けることを願います。「兄弟たちよ。その時と時期については、あなたがたには書き送る必要がありません…」と言われるほど、すでに十分に深い御言葉の討論と黙想がなされていながら、それと同時に日々愛のうちに信徒を励まし合い建て上げる「光の共同体」となるべきなのです。そのように建てられた教会は、世の暗闇の中でともし火を掲げ、「主イエスよ、来てください」と祈りながら、正しい終末論的信仰によって世に仕えていくでしょう。そしてついに主が来られる日、私たちは主と共に真の安息と栄光に入るのです。これこそパウロがテサロニケ教会に伝えた祝福の約束であり、現代の私たちにもなお有効な御言葉なのです。